治大国若烹小鮮
10年前・・・
平山画伯が亡くなられました。私がかつて外務省中東第二課課長補佐でアフガニスタン担当をしていた際、ある一時期、非常に密接に接点がありました。特に文化財保護には並々ならぬ関心を持ち、バーミヤン遺跡、ジャム・ミナレット等の保存には熱心でした。この2つの遺跡が早いタイミングで世界遺産になったのは、平山画伯のお力が大きかったのですね。たしか、ソ連のアフガン侵攻の際、スケッチ旅行でアフガン国内に居たというお話を聞いたことがあります。
国の文化財を守ろう、歴史を守ろうという行為は紛争があろうとも変わらないという観点から、文化財と平和を密接にリンクさせてお考えだったのが懐かしく思い出されます。
2001年にタリバーンがバーミヤン遺跡 を破壊しようとした際、平山画伯から何度か直接お電話をいただき、現状報告等をさせていただきました。結果は残念なものでしたが、その気迫は電話を通じても感じ取ることができました。あの遺跡は脆い砂地に彫ったものなので、一度爆破するともう回復不可能なのです。本当に残念でありません。この資料 はたしか私が作成したのだと記憶していますが、経緯がよく分かるのでご参照ください。
あと、一番記憶に残っているのが、タリバーンの外務副大臣を日本に呼んだ際に平山画伯と会談の機会を設けた時のことです。2000年だったと記憶しています。まだ、アフガニスタンもタリバーンも、そんなにメジャーじゃなかった時代のことです。上司や関係者と掛け合って、タリバーンの幹部を日本に呼んで対話の機会を設けようとしました。今だったら一大行事でしょうが、当時はあまり注目されることもなく、一課長補佐が非常に自由にやらせてもらっていました。
余談ですが、私がその準備をしていたら某写真週刊誌から電話がかかってきて、「あのー、渋谷の街でタリバーンとコギャルというセッティングを考えているんですが・・・」と依頼がありました。「うーん、ヒゲもじゃのタリバーンとコギャルかぁ。一読者としては笑えるのは事実だが、そもそもそんなものはタリバーン側は受けないだろう。」と思いつつも、若干、途方に暮れました。結局、その企画は某写真週刊誌社内企画会議で潰れたらしく何もありませんでしたけど、あの企画がもし成立していたら・・・、怖いものがあります。
その外務副大臣と平山画伯との対話、内容は書けませんが、相当に良いやり取りをしておられました。まだ、破壊される前のバーミヤン遺跡への保護を熱く訴える姿が思い出されます。当時、既にタリバーン内部には教条主義的なイスラム解釈が入り込んでいたため、あまり良い返事はなかったものの、アフガニスタンの歴史を説き起こしつつ語る平山画伯の姿に共鳴しました。
そもそも、タリバーンという組織の中には、ありとあらゆる彫像がダメだみたいな教理はなかったように思います。彼らはパキスタンのクエッタあたりにあるマドラサ(イスラムの学校)で教育を受けていました。たしかに外界に目が向かないところがあるものの、そこまでの教条主義的なところはなかったはずです。しかし、ある時期から極端なワッハービズムが入り込み、決定的だったのはオサマ・ビン・ラーデンと組んだことでした。この辺りにタリバーンという組織の不可逆的な変容を見て取ることが出来るのではないかと私は見ています。
そんなことを思い出しながら、平山画伯の思いを引き継ぐ方が出てこられることを望むばかりです。ご冥福をお祈り申し上げます。