おがた林太郎個人ブログ

治大国若烹小鮮

話して分かる人とそうでない人

 先日、地元で非常に意識の高い方々と憲法や安全保障について語らせていただく機会を得ました。非常に示唆的な一時でした。


 その中で、なかなかご理解いただくのが難しかったことがあります。それは「世の中の大半の人とは話しあえば分かり合える。しかし、どんなにこちらが誠意を持って話しても理解し合えない人がいる。安全保障、国防というのはそのためにある。」ということでした。


 この内容を、「どんな人でも対話で分かり合える」という信念をお持ちの方に納得していただくのは非常に難しいということを感じました。たしかに、私の主張を確固たる根拠を持って説明することはできないのです。「かつて、世界中を巡り、外交の世界にいた者としての経験則」だけが拠り所ですから、「それは違う」と言われてしまうと答えに窮してしまいます。


 文化の違いといったこともあるでしょうし、もっと分化して一個人の中に宿る狂気ということも要因としてあるでしょう。歴史を紐解いてみても、全く理解不能な狂気が世界を大きく動かしたことは多々あります。その狂気の背景を探ってみると、往々にして社会情勢、経済等によってトラウマ、コンプレックスが植えつけられてしまったということがあるので、問題の所在は簡単ではありませんが、そういう背景に同情し、譲歩することが如何に危険かということは歴史が物語っています。例えば、「アメリカ人を一人でも多く殺害することが、唯一神の教えに沿うもの」と主張する人達とは対話は成立しません。一定の実力を持って、排除しなくてはならない存在がこの世の中にはまだまだあります。


 多分、こういう「そもそも論」についての議論が日本には欠けているのでしょう。若干、情緒的なエントリーでした。